2010年2月 6日 (土)

単刀直入

単刀直入(たんとうちょくにゅう)=直接に要所をつくこと。
前置きなど省いて、すぐ本題に入ること。
遠回しな言い方をしないで、遠慮なく核心をつくこと。
「ただ一振りの刀(単刀)を頼りとして、まっしぐらに切り込む」が、転じて、余談、前置きをぬきにして、ただちに要点に入ること。

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前回の記事で説明が足りなかったことだが、我々5人の仲間のうち、TとMは英語部、NとYは演劇部で、私は園芸部と図書委員をしていたのだが、実は、ポンパとTM2人とは中学生時代の同級生であり、NとYとは1年生の時からの演劇部仲間であるので、私が初めて演劇部の中に入り、ポンパと対面した2年生の時には、私だけが初対面であり、他の4人とポンパとは親しい間柄だったのだ。
特にポンパとYとは親しい仲だったので、その後、我々5人はポンパの家で会議という名の宴会をするようになった。

話を前回の続きに戻すが、その後、我々は詩の会を「同人幻詩会(どうじんげんしかい)」と名付け、発行する同人誌を「幻(まぼろし)」と名付けた。
「幻」とは、いずれ卒業時には自然解散することになろう同人誌の行く末を想像して、一時的なものになろうとの憂いを込めて名付けられたものだ。

毎月、個人個人が詩作するということも基本的に大変なことだが、現実問題として、どうやって同人誌を製作するかの具体的な問題に直面した時、我々が考えたことは、資金不足という、ただ一点の理由から、什器備品なり紙などの消耗品を調達するすべは、全て学校のものを利用するしかないだろうとの合意だった。

そして、学校側との交渉は、一見真面目で、クラスでも役員をしていた私が行う事になった。
私は、放課後、職員室に行くと、事務職員のMT氏に面会を求め、「実は、MTさんに、お願いがあるのですが、、、」と切り出し、詩の同人誌を発行したい旨を説明し、印刷機を使用させて欲しいと単刀直入に依頼した。
私は内心、簡単に学校の備品を個人的に使用させて貰うことは難しいと思っていたので、MTさんから断られた場合のことも考えながら話していたのだが、驚いたことに、私の説明が終わると同時に、30歳ほどの年齢と思われる彼は、笑みを浮かべ、快く了解してくれたのだった。

そして、了解どころか、輪転機の使用を始め、ガリ版原紙などの什器やA4版用紙の使用なども許可してくれた。
つまりは、我々の趣旨に賛同してくれ、全面的に協力してくれると約束してくれたのだった。
その後、卒業するまでの彼は、穏やかな人格で優しい人という印象であり続けたのだったが、卒業後、彼が左翼運動家として警察に逮捕されたとの話を聞き、おおいに驚いた。
在学中に見せた彼の印象からは、政治活動をしているような片鱗も見られなかったので、今でも信じられない気持ちだが、おそらく、「隠れキリシタン」のような心中であったのだろうと思われる。
通常、警察に逮捕されるという事態は、尋常なことではないが、私が3年生の時には、東大の安田講堂を学生運動家達が占拠した年でもあり、そのような学生運動が盛んな当時においては、それほど異常なことでもないと思われ、そのようなことからも、私にとっての彼は、今でも優しい人との印象だけに包まれている。

我々は、製作した「幻」の販売方法を検討した。
当時、渋谷や新宿の駅構内では、個人的に自分の詩集を販売している女性が数人いた。
首からプラカードを提げ、「私の詩集を買ってください」というようなことが書いてあったが、立ち止まって詩集を見たり、買っているような光景は、個人的に見たことがなかった。
そのようなことから、我々は同じ駅構内であっても、立ち止まって売るのではなく、帰宅する通勤客や通学生に並んで話しかけ、一緒に歩きながら説明して売りつけるという方法を考えた。

放課後、一旦帰宅してから私服に着替え、それぞれ分かれて、渋谷、新宿、中野、銀座などで上述のような方法で販売し、集合時間を決めて落ち合い、食事をして意見を交換するということを毎月していた。
この販売方法は見事に成功し、一部100円ということもあって、予想以上の売り上げをみせた。
初めは、同じような年頃の文学好きに見える女学生をターゲットにしていたが、試しに中年男性にも声をかけたところ、これが意外に購入してくれることに驚いた。
アンケートをとったわけではないので理由は分からないが、中年男性と言えども、昔は青春時代もあったわけだし、一部100円というワンコインということと、しつこく付きまとってうるさい等との理由から、買ってくれたのだと思う。
今思えば、稚拙な詩の羅列や稚拙な小冊子で、当時購入してくれたお客様には誠に申し訳ない気持ちでもあるけれど、それでも、「頑張ってください」というようなハガキなどをくれた方もあったので、我々の誠意だけは通じたと思っている。

そのような新しく刺激的な生活の中、私はNやYとの行動も多くなり、文化祭前には演劇部の大道具製作にも、たずさわるようになっていた。
今、記憶に残っているのには、ポンパが主演したルナールの「にんじん」の大道具である、家の壁塗りがある。

ベニヤ板を貼り合わせて作られた家の壁を放課後、ポスターカラーで、Nと2人で黄色く塗っていた。
そこへ同じ演劇部の女子が覗きに来て、Nと話していたのだったが、突然の風が吹き抜けて、彼女のスカートは捲り上がり、白いパンツが一瞬丸見えになったのだった。
彼女は悲鳴を上げ、Nと私は目と目を見つめ合い、ニンマリとした。
ただ、それだけのことだったが、年老いた今でも、こんなことだけは鮮明に思い出されるなんて、私の真面目な性格によるものなのかと考えてしまう。

そして、文化祭も翌日に控えた日。
私とNとは夜遅くまで最後の準備をしており、帰宅するのも面倒になったことから近所の公園のベンチで寝ることにした。
季節は10月初旬だったが、10月にしては、とても暖かく、野宿するのも十分に耐えられると判断したからだった。
近所の公園に行くとベンチはなく、ブランコとすべり台だけだったので、太ったNが下になり、私がその上に肩車するような形で、すべり台で寝ることにした。

そして、寝静まった深夜。
私は身の引き締まるような寒さに目覚めた。
夕方までは暖かかったのに、深夜ともなると、それなりに10月の寒さが身に凍みてきたのだ。
すべり台は鉄製でもあり、その冷たさが文字通り、身に凍みて伝わってきた。
Nは?と、見ると、彼は皮下脂肪に包まれているせいか、スヤスヤと寝ている。
私は、もう寝ることができない状態で震え始めていた。
仕方無く、私は彼に覆い被さるようにして、初めて男を抱いた。
何となく複雑な心境ではあったが、それでも、いつしか意識を失っていた。

翌日、文化祭は始まった。
私は、女子部の教室に作った園芸部の大規模な盆景のチェックを終えると、演劇部のリハーサルを見に行った。
演劇部の公演は午後で、午前中に最後のリハーサルが行われるからだった。
講堂には椅子などが整然と並べられており、リハーサルが始まった。
私は、当時、すでに写真撮影を趣味としていたので、高校入学祝いに親に買って貰ったオリンパスFというハーフサイズでありながらレンズ交換ができる一眼レフを持ち、ポンパの演技を撮影していた。

彼女は、主役の「にんじん」の役で、少年であるから、白いシャツに茶色の半ズボン姿で、顔には「にんじん」の愛称となった「そばかす」が点々と付けられて、たすき掛けのズボン吊りで熱演していた。
一通り撮影し終わると、近くの席に座ってリハーサルを見ていたのだが、すぐ後ろには演劇部の顧問である古文担当のK先生がいた。
そこへ現代国語担当のH先生が来て、隣に座り、K先生に、「できは、どうですか?」と聞いた。
するとK先生は、「ダメですね」と言った。
私は顔は前に向けたまま、猫のように耳を後ろに向けて、この「ダメですね」を聞いていたのだが、この言葉が謙遜して言っている言葉か、あるいは本音なのか、よく判らなかった。
しかし、全体の印象はともかく、ポンパは結構素人離れした演技をしていると思っていた。

そして、本番公演も無事に終わり、片付けをしている最中のこと。
私は、そこまでの手伝いはせず、たまたま、楽屋口にいた時に、ポンパの父親が娘の為にとの思いであろうが、かんぴょうの海苔巻きの折り詰めを20個ほど、差し入れしてくれて、ポンパは仲間に配り始めていたのだった。

私は、何気なく、その様子を見ていたのだったが、そこへポンパがやって来て、「どうぞ!」と、私にも差し出してくれた。
私は驚いて、「いや、私は部外者ですから!」と言うと、彼女は微笑んで、「いいんです!」と言って手渡し、また戻っていった。
私は、この時、それまで余り良い印象を持っていなかったポンパに対して、かんぴょうの海苔巻き、一折りにより、気立ての良い子だというような印象を持つことになった。

後年、結婚してから、この話を持ち出した時、彼女の言った言葉。
「あまりにも物欲しげな顔をしてたから、仕方無くあげたのよ!」

【ポンパにバレなければ、次回に続くかも?】

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2010年1月31日 (日)

合縁奇縁

合縁奇縁(あいえんきえん)=不思議な巡り合わせの縁。
他人との交際には自然と気心の合う合わないがあるが、それもみな因縁(いんねん)という力の不思議な作用によるものであること。
男女、友人との間柄についていう。

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高校時代、私の親友のYは演劇部員であり、私は園芸部員と図書委員をしていた。
ある時、私はYに導かれて演劇部の部室に入って行った。
この演劇部には、我々が3年生の時に、後に「松坂慶子」と呼ばれる女優が入部してきて、挨拶した時の事を鮮明に覚えていると、ポンパが以前、話していたことがあった。
『よろしくお願い致します。劇団ひまわりに所属しています。』というような挨拶をしたらしいが、当時から相当きれいな娘だったようだ。
また、ポンパの同級生であり、仲良しの親友で、やはり後に女優となった人に「木内みどり」がいる。
彼女は授業中、ろくに勉強しないのに試験の点数は常に上位であったとのことだった。
今は女優を辞め、チベット文化関係の後援者となっているようだ。

さて、私は高校2年生になってから、それまでの友人とは別な友人仲間ができた。
何気ない会話の中から、「詩の同人誌を作ろう」という事で話が合った仲間で、Y、M、N、Tの4人と私。
この5人の仲間と意気投合したことで、高校生活は一変し、また生涯の友としての道を歩むことになった。

我々は、同人誌を毎月発刊すること以外にも、都内の山々を登山して詩を書いたり、スケッチをしたり、夏休みには離島に行き、テントを張ってキャンプをしたり、その他、記事には書けないような悪さも数限りなくして、常に行動を共にしていた。
そのような生活の中、2年生の秋。たしか9月頃だと思ったが、Yに導かれて演劇部の部室に入って行ったのだった。
部室の中では、中央のテーブルで1人の女子生徒が立てかけた鏡を見つめながら、一生懸命、顔にドーランを塗っていた。

この高校は、現在では男女共学制になっているようだが、その当時は共学ではなく、男子校舎と女子校舎が敷地内に別々に建っており、クラブ活動や一部の特殊授業以外は別学で行われていた。
最近、この高校がテレビに出たので驚いたが、現在、人気漫才コンビの「オードリー」の出身校ということで紹介されたのだ。
テレビに映し出された高校敷地内の景色や校舎は当時の様子とは大分違っている感じだったが、敷地内中央を横切るイチョウ並木道は現在も健在であった。
私たちが在学中には、「加山雄三」の「若大将シリーズ」の映画撮影も行われており、女子生徒が黄色い声をあげていた光景が思い出された。

演劇部部室内に入ると、Yは、その女子生徒に私の名を告げ、簡単に紹介した。
彼女もコクリとうなづき、「こんにちは」というようなことを言ったと思うが、その後は、すぐに化粧の続きをしていた。
Yは、ちょっと待っててくれと私に言うと、部室から出て行ってしまった。
私は見知らぬ場所で、見知らぬ女子生徒と2人だけになってしまったことに緊張し、所在なげに辺りを見回した。
壁際に折りたたみの椅子があったので、そこに座り、持っていた新書版の「日本語」という本を読み始めた。
読み始めたとは言っても、本の内容に没頭できるはずもなく、意識は常に彼女の存在に向けられていた。
彼女の化粧をする手の動きは素早く、いかにも手慣れた感じの動作であった。

後日、判った事だが、この化粧は10月の文化祭で発表される、ルナール作の「にんじん」の舞台稽古用の化粧だったのだ。
私には姉が2人いるが、母も含めて、女性の化粧する姿を意識して見たことがなかった私にとって、間近で見る彼女の化粧の素早さには驚きもしていたが、ジッと見つめていたわけではなく、本を読むふりをして、時折、盗み見る感じだった。
もっとも、誤解を招かぬよう言っておくと、この時の私の心情は、決して嬉しい思いではなく、なにかよそよそしく、冷たい感じの彼女の態度に対して、少しの不快感を感じていた。

Yは何をしているのか?、なかなか帰ってこなかった。
わざわざ自分を同行させておきながら、1人だけにさせているYに対しても、少々怒りを感じていた。

そして、この出会いが、実は、ポンパとの最初の出会いだったのだ。

【次回に続くかも?】

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2010年1月24日 (日)

隔世之感

隔世之感(かくせいのかん)=世情が移り変わったという感じがすること。
時代がすっかり変わってしまったという実感。
ひとつの時代を隔てたような感覚のこと。

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1月17日。浅川マキというアングラ歌手が亡くなった。
享年67歳とのことだった。
朝、新聞を見て知った私は、すぐに朝食の支度をしていたポンパに報告した。

今は昔、私が十九の春の頃のこと。
ポンパから、一通の手紙が来た。
その封筒の中には、劇団「風」の定期公演の券と、「よろしかったら、観に来てください」というような文章がしたためられていた。

私とポンパが知り合ったのは、高校が同じではあったが男女別学、別校舎の為に、直接知り合ったのではなく、演劇部に所属する親友を介して知り合ったというだけで、その後も、間接的には接触していたが、直接二人だけで会うことも話すこともない仲だったので、その招待券の入った手紙が来たこと自体に驚きもした。

後年、知ったことだったが、彼女は当時、新劇団体である、劇団「風」の団員で、定期公演の券販売のノルマを背負い、団員それぞれが数十枚の券をさばかなければならず、ほとんどは自腹を切って、知り合いに配っていたからであって、私に送ってきたのも、私に対して特別な思いで送ってきた訳ではなく、単純に知り合いのひとりという感じで送ってきたらしかった。

しかし、私の方は、そのような事情を知らず、それほど親しい仲ではなかったので、何か彼女の意識なり、意図するものがあるのかと不思議な思いで受け止めたので、そのような心情を素直な感じで手紙にしたため、返事を出した。

すると、しばらくして彼女から返事の手紙が来た。
そして、その手紙の冒頭に書いてあったのが、浅川マキの「夜が明けたら」という歌の歌詞だった。
歌詞の次には、彼女の文章がしたためられていたが、その内容も不思議な文章であり、意味が歌詞以上に分からないような文章であった。
しかし、通常の手紙とは変わった手紙であることに対して、私は、尚いっそうの興味をひかれる思いがして、彼女との文通が始まったように記憶している。

当時の世情は、大学紛争が治まりかけては来ていたが、私の通う大学は封鎖されており、勉学に集中できるような状態ではなく、街にはヒッピーやらフーテンと称するような若者がいるかと思うと、大学に通う私に対し、「オマエは、プチブルだ!」と説教する、にわか闘志もいたり、新宿の地下道では、寺山修司の演出らしい天井桟敷の若者たちが路上での劇をやっていたりで、そのような喧騒の街中、私はめまいがするような感覚を覚えていた。

そんな中、劇団「風」は、基本的には詩を題材にした劇をする劇団だったが、定期公演での演目は、むしろ、まともとも言える、ツルゲーネフの「かもめ」だったような気がした。
私にとっては、天井桟敷や赤テントの劇よりかは、余程に解り易く、当時は民芸や文学座などの芝居も好きで観ていたので、私もポンパのくれた券を持って観劇に行ったのだった。

そこで彼女と初めて二人だけで直接に話すことができ、色々な話の中のうち、彼女が浅川マキに、はまっているファンであることを知った。
その後、彼女と渋谷の公園通りにあった教会の地下のライブハウス、「ジャンジャン」で、浅川マキのライブを最前列で観ることになり、私も浅川マキのファンになった。
いや、浅川マキのファンというよりも、むしろ、ポンパのファンになったという言い方の方が合っているのかもしれない。

【続きは、来週へ】

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2010年1月10日 (日)

消防出初

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正しくは、「平成22年 東京消防出初式」と、言うのだそうですが、ご存じのように、私のブログは、タイトルに制約があるものですから(笑)ご案内のようなタイトルの形でまとめました。

昨年暮れから体調を崩した私ですから、今年は行く気がしなかったのですが、普段、寡黙な次男が数日前に漏らした言葉に、彼も参加するような事を言いましたので、寡黙な彼が(笑)、あえて言葉少なに告知したという事は、見に来て欲しいのかな?との思いもあり、これも親の務めとばかりに、家族で見学に行くことになったのです。

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私は本来、出勤日である元旦を振り替えて休んでおりますので、6日も振り替え、そして明日の11日も祭日で売り上げがひどく落ち込むことが予想されますので休日にする為に、結果的に、9日、16日、23日の3週の土曜日に出勤することとなりました。

さて、そのようなわけで、6日の出初め式には、私とポンパとバッタの3人で行くことになったのですが、当日までバッタも行く気で意気盛んだったにもかかわらず、当日朝の天気予報では、晴天であるが故に寒さも厳しいとの予報でして、現地は東京湾の海岸に面した所でもあるので、風も相当強いと想像されましたので、大事をとってバッタはテレビ見学で済ませることになりました。

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だいたい、この会場である「東京ビッグサイト東駐車場」という場所は、最寄りの駅である、「ゆりかもめ線」の駅、「国際展示場駅」から歩いて10分以上かかる遠さでして、高齢のバッタにとっては尚更、大変なことと思われましたので、総合判断をして、我々2人だけで行く事になりました。
実は、まだ体力的にも、まだまだ若いつもりの私でさへが、帰宅した時には相当バテてしまいまして、午後2時頃帰宅したのですが、コタツに入るなり、そのまま2時間ほど爆睡してしまったほどでした。

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私たち2人は、2年前(2008年1月13日の記事)にも息子が出演するということで来ているのですが、あの時は息子も赤坂消防署の、平の消防士でしたが、現在は昇級試験に合格し、消防副士長になっているので、お祝いの意味も兼ねて行く事にしたのです。

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私たちは東横線から山手線に乗り、新橋駅から「ゆりかもめ」に載って前述の「国際展示場駅」まで行ったのですが、やはり結構な道のりでした。
2年前にも行ってますから、ある程度は承知していたのですが、それでも記憶は曖昧になっておりましたので、今思えば、2年前の自分のブログ記事を読み返しておけば良かったのですが、体調不良のせいで、その気も起きず、約1,5時間かかるとみて、会場での席取りするのに約1時間前ほどに着けば良いだろうとの想像から、朝7時に出発しました。

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いい加減な予想で行ったにもかかわらず、現地に到着した時は、横長の広い客席が、まばらに半分ほど埋まっている感じでして、2年前は席がほとんど埋まっていた為に海に向かって左端の方にしか座れず、会場中央より右の方はよく見えない感じでしたが、今回は、余裕があったので中央右側の最前列に席を得られました。

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基本的には、会場中央の来賓席の上段の方がベストの席なのでしょうが、今回は息子の部隊は会場右手より出て来て、中央よりも右側の方で演習を行うようなことを、寡黙な息子が、かたことの日本語で(笑)言っておりましたので、あえて意識的に右側寄りの席を取ったのでした。

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9時45分の開式から、息子の話ですと秒単位でスケジュールが組まれており、確かに式典後半の消防演技などでは、広い会場の各場所で、それぞれ異なった災害を想定しての救助活動が繰り広げられ、各隊員のキビキビした動きが印象的でした。

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開式、国旗掲揚、などの後、祝辞として、石原東京都知事や原口総務大臣の名が上げられましたが、双方とも代読者でした。
この東京消防出初め式は、古くから毎年1月6日に行われている恒例行事でありますから、石原都知事もスケジュールを合わそうと思えば合わせられるはずだと思われますが、残念ながら前回もそうでしたが、欠席されました。
原口総務大臣の方は、公務でインドネシアとかに行ってるそうなので、こちらは仕方無いでしょう。

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祝辞の後は、カラーガーズという女性の旗振り演技や音楽隊演奏があり、その後、徒列部隊等分列行進、機械部隊分裂行進が続き、江戸時代から続いている「はしごのり」の演技が行われました。

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社団法人「江戸消防記念会」による「はしごのり」です。
高さ6メートルのはしごの上での演技ですが、いつ見ても見事ですし、たいしたものだと思います。
私も若い時は、電気工事士として同じような高さの電柱によく登っていましたが、電気工事士の場合は、安全帯に付けられた頑丈なロープで落下防止を確保してますし、メインロープの他に、補助ロープというものも使用して、二重の安全を図ってますから、正常な作業手順をしていれば、高所作業での恐怖心はあっても怪我することはありません。

ところが、「はしごのり」の場合は、ご覧のように、ヘルメットもかぶらなければ安全帯も無いのですから、危険この上もありません。
もっとも、「はしごのり」で、ヘルメットや安全帯をしていたら、面白くもなんともないのでしょうがね?(笑)
「江戸火消し」の粋が身上なのでしょうが、、、確かに、見事な演技でした。

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そして、「はしごのり」が無事に終わりましたら、いよいよ、消防庁消防隊各部隊による消防演技が各所で始まりました。
ヘリコプターが急接近して来たと思いましたら、最初の頃は建物の陰で分からなかったのですが、海中にいる被災者を救助する為に飛来したという想定のようです。

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消防演技用の仮設建物と建物の間から、わずかに見えたワイヤーで被災者をつり上げるシーンです。

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そして、左手の建物からは火災が起こり、特別消火中隊による消防演技が披露されています。

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その様子を見てましたら、私の目の前の建物で大きな爆発音がして黄色い煙が上がりました。
この爆発音は相当大きかった為に、私のみならず、近くの観客席からは悲鳴やらどよめきが起こったほどです。

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そして、その爆発音を合図に、右手より2台のポンプ車が急行してきました。
このポンプ車は化学消防隊のようでして、先ほどの黄色い煙は、化学工場での爆発火災を想定したもので、消防車に乗っている隊員は防毒マスクをかぶっております。

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そして、1人防毒マスクをかぶってない運転手を見ると、おお、なんと我が息子!
おまえは、一番、楽な役回りだったのね?(笑)

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この青いテントは、化学薬品に汚染された被災者を洗浄する、一種の仮設シャワー室のようです。

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そして、こちらの防護服は、細菌などに汚染された場所へ突入する為のもので、素早く着たところですが、画像的には、ふざけ合っているようですが、細菌に汚染されないように、お互いに気密状態をチェックしているところのようです。

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この赤色のテントは、どのような仕組みになっているものか、見てる間に 素早く立ち上がったテントです。
「除染テント、入口」となっていて、男女別になっています。
こちらで細菌汚染の洗浄が行われるのでしょう。

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いよいよフィナーレを飾るのは、「はしご隊」の演技と一斉放水です。

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「はしご車」が、右から左から続々と走ってきて、車体を等間隔に斜めに停止しましたら、車体固定の為の足を出しまして、合図と共に一斉に「はしご」が延びていきました。

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30メートル級の「はしご車」が9台ほど、そして後方に黒く見えるのが40メートル級の「はしご車」です。

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時を同じくして、地上での一斉放水が始まり、

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ヘリコプター4機が編隊飛行で旋回し、

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海上では4隻の消防艇から4色の一斉放水。

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中央の「はしご車」のくす玉が割れるのを合図に、

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各「はしご車」からは、スルスルと万国旗ならぬ各色の三角旗が舞い降りてきました。

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上の画像では40メートル級の「はしご車」のバスケット部分が見えないので、カメラをもう少し上方に向けて撮影しました。

目の前の30メートル級の「はしご車」も、相当高い位置に見えますが、そのうしろの黒い40メートル級の「はしご車」の高さを手前の「くす玉」のある30メートル級のはしご車と比べてください。
私も、かつては電柱の上や普通の2連ばしごの上での恐怖感を経験してますが、この「はしご車」の上は想像できないほど、恐そうですね。

こうして、「第22回 東京消防出初式」は、無事、終了しました。
身びいきで言うのではありませんが、やはり警察官と消防士というのは、時に命がけでする仕事ですし、我々国民市民の身を守る重要な使命を担った職業だと、改めて思いました。

そうそう、そう言えば、タクシー2台も消防演技に参加しておりました。
要は、大規模災害の時、怪我人を搬送するのに救急車だけでは間に合わないので、タクシーが民間からの応援に出るようです。
って、他人事のように言う私って、何屋さん?(笑)

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